HOME | 解説③古墳の内部 1

古墳の中はどうなっている?①

3世紀~5世紀の埋葬施設

 古墳には鍵穴形をした「前方後円墳」や、円形の「円墳」などさまざまな形があることやさまざまな装飾で古墳の表面を飾っているはコチラのページなどで述べました。それでは古墳の土盛りの中はどうなっているのでしょうか。言うまでもないかもしれませんが、古墳は基本的に「お墓」であるということを忘れることはできません。
 ですので、古墳の内部には遺体(被葬者)をおさめるための施設、埋葬施設(まいそうしせつ)がつくられます。この埋葬施設には、被葬者の棺のほか、被葬者にかかわるような豪勢な副葬品など多くのものがおさめられます。
 ただし、一口に古墳時代とは言っても、3世紀のなかごろから7世紀はじめまでという非常に長い期間が含まれています。
 300年以上にわたって造られ続けた古墳ですが、その中の構造が常に同じであったわけではありません。様々な構造のものが使われるのですが、以下では、いくつかの時期にわけてみていきたいと思います。

「割竹形木棺」の時代

  3世紀後半から4世紀にかけては、木棺の時代といえます。5m以上という非常に長い丸太を縦に半分に割ってつくられる木棺を「割竹形木棺(わりたけがたもっかん)」といい、当時の有力者だけが使用を許されていたと考えられています。
 この木棺には、コウヤマキという木が特に好んでつかわれました。コウヤマキは、弥生時代から木棺の材料として使われてきた伝統的な木材です。
 ちなみに少し時代は下りますが、朝鮮半島の南西部を支配した百済では、6世紀の「武寧王陵」において、このコウヤマキの木棺が用いられています。当時の百済地域ではコウヤマキが生育していなかったとされており、日本からわざわざ棺のための木材が運ばれたと推測されています。日本と百済との交流を示す重要な証拠です。

「長持形石棺」の登場

 割竹形木棺につづいて、4世紀おわりごろになると「長持形石棺(ながもちがたせっかん)」が用いられるようになりました。この長持形石棺は、大王などハイクラスの人々にしか採用を許されず、まさに「王者の棺」と呼ぶのにふさわしいものです。
 割竹形木棺もひきつづき存在しますが、木棺はこうした石棺よりはランクが落ちる扱いになってしまいました。
 現在、藤井寺市の史跡城山古墳ガイダンス棟まほらしろやま(外部リンク)では、実物大の長持形石棺(古市古墳群・津堂城山古墳)が復元されています。ぜひ訪れてみてください。
 また、日本最大の規模をもつ大仙陵古墳、仁徳天皇陵とされる巨大古墳からも、かつて長持形石棺が見つかっています。現在はやはり現物を見ることができませんが、復元品は堺市博物館(外部リンク)でも見ることができます。
 今回のプロジェクト対象である野中古墳は、この長持形石棺が盛行していた時期の古墳ではありますが、長持形石棺は使われていません。甲冑などの副葬品は木の箱のなかにおさめられていました。こうした内部施設の構造の違いは、野中古墳のような大型古墳に付属するように立地する小古墳、一般に「陪冢(ばいちょう)」と呼ばれる古墳の性格を考えるうえで、面白い現象といえるでしょう。

棺をおさめる施設

 さてこれらの様々な棺は、直接地面に埋められることもありましたが、特に有力者の場合石で築いた部屋に納められていました。
 3世紀から5世紀にかけては、「竪穴式石室」と呼ばれる石室の中に棺を納めることが一般的でした。
 この竪穴式石室は、一度棺をおさめて蓋をしてしまうと、二度と開けられることがありませんでした。いわば一回きりの施設だったのです。
 そのため新しい死者を葬るには、同じ墳丘の違う地点に別の棺を埋めたり、更にはどんどん新しい古墳をつくり続けたりすることになりました。

野中古墳コンテンツ

プロジェクト概要

大阪大学が発掘調査をおこなった野中古墳の出土品をもとに「古墳の価値を未来に―出土品の3D計測プロジェクト―」を実施しました。その概要をお伝えします

 

百舌鳥・古市古墳群

野中古墳を含む、大阪府の百舌鳥・古市古墳群は、2019年7月6日にユネスコ世界文化遺産に登録され、注目を集める日本最大級の古墳群です。 

 

野中古墳3D映像

野中古墳から出土した豊富な武器・武具類。その一部を3D映像でご覧いただけます。

 

解説!古墳時代

みなさんに古墳のことを知っていただくために、古墳の形、装飾、副葬品や百舌鳥・古市古墳群について解説しています。