HOME | 解説⑧百舌鳥・古市古墳群(後編)

百舌鳥・古市古墳群とは?(後編)

4.百舌鳥・古市古墳群の終焉へ

 大仙陵古墳の築造後、百舌鳥古墳群、古市古墳群はそれぞれペースを異にしつつも、終焉へ向かっていきます。
 百舌鳥古墳群では最後の大型古墳である土師(はぜ)ニサンザイ古墳が築造されました。この土師ニサンザイ古墳が、百舌鳥古墳群では最後の大古墳となります。
 土師ニサンザイ古墳では近年、後円部から周濠にかけて並んだ木柱列の痕跡が発見されました。周濠をわたる橋がかけられていた可能性が考えられ、当時の葬送儀礼のようすを復元する重要な手がかりと言えそうです。
 一方の古市古墳群は、百舌鳥古墳群にくらべて大型古墳の築造が若干遅くまで続きます。誉田御廟山古墳から少し間をあけて、市野山(いちのやま、允恭陵)古墳、前の山(まえのやま、「白鳥陵」)古墳、そして岡(おか)ミサンザイ古墳(「仲哀陵」)が築かれました。

 

 このうち墳丘長230mの市野山古墳について、注目すべきポイントが存在します。市野山古墳の陪冢である唐櫃山(からと)古墳と長持山(ながもちやま)古墳では、後の家形石棺につながる形態をもつ石棺が採用されました。古墳の中はどうなっている?②をご参照ください。
 これまで百舌鳥・古市古墳群では、大王級の古墳でしか石棺(長持形石棺)の採用が認められていませんでした。陪冢で石棺が採用されるというのは、非常に大きな転換点である可能性があります。こうした陪冢のあり方の変化も、百舌鳥・古市古墳群の歴史的意義を考える上で重要といえます。
 古市古墳群での大型前方後円墳築造は、百舌鳥古墳群よりは遅くまで継続するとはいうものの、墳丘長およそ240mの岡ミサンザイ古墳を最後にほぼ終了します。その後は、100m前後の前方後円墳がいくつか作られ、大型古墳群はおおむね衰退期を迎えました。
 ただし、百舌鳥・古市古墳群の中間に位置する河内大塚山古墳は、岡ミサンザイ古墳よりも後に作られたと考えられており、墳丘規模も355mと非常に大きいものです。何故この時期に大きな古墳が築かれたのかは不明ですが、大和の五条野(ごじょうの・見瀬)丸山古墳などと合わせて捉えなおしていくことが求められています。河内大塚山古墳は墳丘の築造が未完成のまま終わってしまったとする説もあり、いまだ謎多き古墳であるといえます。
 古市古墳群の中心からはやや西方に離れた河内大塚山古墳を除くと、古市古墳群の後期の古墳では、規模が縮小し、数も減少しており、5世紀の大古墳群の築造状況とは、大きく変貌することになります。
 ただし、古市古墳群では、終末期、7世紀になっても、大型方墳である塚穴(つかあな、来目皇子墓)古墳など、少ないながらも有力な古墳が築かれ続けています。
 そうはいうものの、古市古墳群の往時の盛行は過去のものとなり、東方、現在の太子町周辺に当たる河内飛鳥とも呼ばれる磯長谷(しながだに)などで、多くの有力古墳が築かれていきます。河内における古墳の中心地も、百舌鳥・古市から磯長などへと移動することになりました。

おわりに.野中古墳の特徴と残された論点

 さて、これまで百舌鳥・古市古墳群の紹介をしてきましたが、最後に本プロジェクトの主役である野中古墳について、改めてその歴史的意義などを考えてみたいと思います。
 野中古墳は、これまでも述べてきたように、墓山古墳の“陪冢(ばいちょう)”という特殊な立ち位置にあります。墳丘の大きさや形とその中身(副葬品等)とが、通常の古墳とは異なり、非常にアンバランスです。 
 古墳時代には、古墳の大きさと墳丘の形とが組み合わさった広域的な秩序が存在したと考えられています。ただし、すべての古墳が機械的にこの秩序に当てはまるわけではなく、陪冢はその最たる例です。
 というのも、野中古墳のように小さな墳丘であるにもかかわらず、本来であれば100mをこえる大型前方後円墳に入っていてもおかしくないような、きわめて豊富な副葬品が埋納されているのです。
 そしてその立地は、主墳たる前方後円墳との密接な関係をあらわすように密着したものです。“陪冢”のひとつの解釈として、最上位の有力者に直属して、官僚的な立場として指導的役割を担う人物の存在などが推定されています。このような陪冢の存在は、当時の社会構造を考える大きなヒントが隠されているのです。

 ただ、一口に陪冢といいますが、その内実にも様々なものがあります。詳しくは、『野中古墳と「倭の五王」の時代』(大阪大学総合学術博物館叢書)をお読みいただきたいと思いますが、例えば誉田丸山古墳のように、最上級の豪華な品を、個人の所有の範疇とおもわれる量だけ持つ場合があります。それに対して、野中古墳やアリ山古墳、西墓山古墳などのように、とても個人的所有とはとらえづらいような、鉄製品の大量副葬がみとめられる場合もあり、副葬品の内容は、それぞれの古墳が築かれるに際しての異なる背景を示しているものと推定できます。
 また、陪冢が作られる時期が、アリ山古墳のように、主墳に対してそれほど時期差を持たない場合と、野中古墳のように、比較的長く持つ場合とがあります。野中古墳の場合は、なぜ同時期の最有力の人物の古墳に近接させるのではなく、一代前のような有力墳に沿わせるように陪冢をつくったのか、という疑問も浮かび上がってきます。
 あくまで一つの可能性ですが、たとえば、陪冢の造営者が、主墳の被葬者と個人的な強いつながりを持ち、その関係を重視していて、早くに亡くなった主墳の被葬者との関係を誇らしく維持し続けていた、といったことがあったのでしょうか。逆に言えば、そうした個人の事情がまかりとおるような政治や社会関係の構造を示しているのかもしれません。
 ただし、ここで少し問題になることもないわけではありません。野中古墳と同じ墓山古墳の陪冢である西墓山古墳は、発掘調査の結果、人体埋葬の無い「埋納施設」であったと考えられています。
 陪冢には必ずしも人体埋葬がなく、いわば主墳の付属施設であったものも含まれていたことになります。その点では、そもそも、野中古墳には人体埋葬があったのか否かという点も、実のところ議論になっているのです。

 位置図は、野中古墳の副葬品がどのような位置から出てきたかを、真上ならびに真横から見た図です。これをみると、副葬品は何列かにわかれて納められていること、そしてそのうち第1列と第2列の南半には、副葬品以外の物体が入る余地がないほどに、びっしりと武器・武具が納められていることがわかります。
 そして、最大の焦点であるのは、第2列の北端にある空間です。この空間には赤色顔料が認められました。先に人体埋葬がないと述べた西墓山古墳においては、赤色顔料の散布は認められませんでしたが、一般的には古墳の木棺などには赤色顔料がよく撒かれています。ですから、人体埋葬があった可能性は十分に考えられます。ただし、問題はその赤色顔料の範囲が長さ70センチ程度ときわめて短いことです。これでは、成人男性がまっすぐ入ることはできそうにもありません。

 かたや人体埋葬の存在をにおわせる赤色顔料、かたや人体を納めるには小さすぎる空間。このねじれた状況から、人体埋葬の有無について、長らく議論がたたかわされているのです。
 ただし、野中古墳では第3列や第4列もあるのですが、後のかく乱などを受けているため、本来の状況が残されておらず、人体埋葬の空間が別の部分になかったとまでは言い切れません。
 また、この問題を解決するには他の要素も着目が必要となります。たとえば、野中古墳が人体埋葬をもたなかったと考える場合には、なぜ主墳との間に時期差が存在しているのか、ということも説明が必要になってきます。もし陪冢におさめられた副葬品が、主墳の被葬者の所有物などであった場合、あえて死後しばらくの時間をあける必要はなさそうです。
 とはいえ、人体埋葬の根拠として十分というわけではなく、残念ながら人体埋葬の有無については決め手に欠けるのが現状と言うべきでしょうか。野中古墳、ひいては他の陪冢において人体埋葬があったのか否かは、当時の政権構造などにもかかわる重要なポイントであるため、引き続き、研究と議論を続けていく必要がありそうです。
 人体埋葬の問題をやや詳しく取り上げましたが、そのような難題はあるにしても、野中古墳の意義は、少なくありません。この時期を代表する武器・武具などを大量に納めており、その生産と流通や保有関係を明らかにする材料を提供したことは、非常に重要な意義を持つものです。とりわけ、畿内の鉄製武器・武具の保有の卓越と、それは政治力や軍事力の大きさをも示す点はすでに定説となっています。
 今後も、当時の政治や社会の実態などを復元することに繋がる新知見が、この野中古墳から生み出されてくるものと期待されます。小さな古墳から、大きな歴史像を読み解くことは、考古学の意義であり、楽しみでもあるのです。謎を解きほぐすカギは、まだまだ我々の知らないところに眠っているはずです。

野中古墳コンテンツ

プロジェクト概要

大阪大学が発掘調査をおこなった野中古墳の出土品をもとに「古墳の価値を未来に―出土品の3D計測プロジェクト―」を実施しました。その概要をお伝えします。

 

百舌鳥・古市古墳群

野中古墳を含む、大阪府の百舌鳥・古市古墳群は、2019年7月6日にユネスコ世界文化遺産に登録され、注目を集める日本最大級の古墳群です。 

 

野中古墳3D映像

野中古墳から出土した豊富な武器・武具類。その一部を3D映像でご覧いただけます。

 

解説!古墳時代

みなさんに古墳のことを知っていただくために、古墳の形、装飾、副葬品や百舌鳥・古市古墳群について解説しています。